2011年01月10日

『1Q84』(☆☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『1Q84』(いちきゅうはちよん)は、村上春樹の長編小説。2009年5月、書き下ろしとして新潮社から刊行された。2009年11月に第63回「毎日出版文化賞 文学・芸術部門」を受賞した。

<あらすじ>
10歳の時に出会って、離ればなれになった青豆と天吾は、この世界で自分一人で生きていく孤独に耐えながら、リアリティの感じられない日々を暮らしていた。しかし、1984年に2人とも同じ組織に対する活動にそれぞれが巻き込まれていく。そして、青豆は現実とは微妙に異なっていく不可思議な1984年を「1Q84年」と名付ける。Book1、Book2では、スポーツインストラクターであり、同時に暗殺者としての裏の顔を持つ青豆を主人公とした「青豆の物語」と、予備校教師で小説家を志す天吾を主人公とした「天吾の物語」が交互に描かれる。Book3では2つの物語に加え、青豆と天吾を調べる牛河を主人公とした「牛河の物語」が加わる。

<感想>
小説(=フィクション)というのは、「作者と読者の間の暗黙の了解の上に作られた、極めて手の込んだ虚構」であると思います。作者はそれを無論のこと「嘘」とわかって書き、受け取り手たる読者もまた、それを「嘘」と理解した上で、楽しむ。私は、村上春樹という作家は、この構造に対して、終始自覚的に取り組んできた作家であると思います。デビュー作『風の歌を聴け』は、私小説という形をまとった、完全なフィクションです。彼は作中に、現実と全く対極にある「絶対に起こりえなさそうな事件」を頻繁に登場させます。それは時として、ファンタジー小説や、SF小説の設定などをも凌駕するほどの「非現実」っぷりです。が、それと同時に、多数の(実在する)固有名詞や、それを使った隠喩もたっぷりと散りばめる。これにより彼の作品は、思弁的要素と、一見相反するポップさとを併せ持つことになるのです。彼の多くの作品のテーマは難解であり、展開は非現実的です。にもかかわらず、強力な牽引力を持って、およそファンタジーともSFとも無縁な読者まで、最終ページまで導いてしまうのです。ラストまでに、読者の内的現実は、少なからず揺さぶられることになります。そしてスリリングな読書体験として、読者の中に残る。 この作品でも、村上春樹のその手腕は、いかんなく発揮されています。物語の構造は、これまでを凌ぐほどに「ぶっ飛んで」いて、それと同時に、不気味なほど、読み手に迫る説得力を持っています。作者の手法は、より研ぎ澄まされていて、そこに退嬰はなくあるのは深化です。『1Q84』は、極上の「嘘(=小説)」です。村上春樹ファンにも、そうでない方にも、おすすめします。

〜『1Q84』、村上春樹〜
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『街と、その不確かな壁』(☆☆:小説おすすめ度)

『街と、その不確かな壁』 (まちと、そのふたしかなかべ) は、村上春樹の実質的には第三作目となる中編小説。1980年『文學界』9月号に掲載された。後に発表される『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』へと発展する習作的な小説として位置しているが、村上の意向により単行本や全集にも一切収録されていない作品である。この作品は、『1973年のピンボール』が芥川賞候補となったことにより、その受賞第一作として発表することを意識して書いたと、村上自身がインタビューで明らかにしている。テーマそのものは以前から暖めていた内容であったが、文体は前二作とは異なり生硬で難解なものとなり、また物語の結末も本人にとって納得のいくものではなかったようで、村上は後に「あれは失敗」であり、「書くべきじゃなかった」とも語っている。

<あらすじ>
18歳の夏の夕暮れ、「僕」は「君」から高い壁に囲まれた「街」の話を聞く。「君」が言うには、ここに存在するのは自分の「影」に過ぎず、本当の彼女はその壁に囲まれた「街」の中にいるという。「君」(の影)はその後まもなく死に、「僕」は「君」から聞いた「ことば」をたよりに「街」に入り、予言者として「古い夢」を調べることになる。「僕」は本当の「君」に出会い、しだいに親しくなっていくが、「影」を失った彼女とはどんなに言葉を交わし、身体を重ねても、心を通わせることはできないことに気付く。やがて「古い夢」を解放することに成功し、その底知れぬ悲しみを知った「僕」は、「影」を取り戻して「街」を出ることを決心し、留まらせようとする「壁」を振り切って現実世界へと回帰する。弱くて暗い自分の「影」を背負い、その腐臭と共に生きることを選択した「僕」は、一秒ごとに死んでいく「ことば」を紡ぎながら「君」の記憶を語り続けていく。

<感想>
文学がかった学生が書きそうな文体です。決して読みやすくはありません。村上春樹自身も「あれは失敗」であり、「書くべきじゃなかった」とも語っている。しかし、この失敗作がなければ、傑作を生み出せなかったのも、事実でしょう。

〜『街と、その不確かな壁』、村上春樹〜
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『アフターダーク』(☆☆☆:小説おすすめ度)

『アフターダーク』(afterdark)は村上春樹の長編小説。2004年9月7日、講談社より書き下ろし長編小説として発刊、2006年9月15日には文庫版が発行された。キャッチコピーは「新世界へ向かう村上小説」。作中には村上が表現する、深夜の都会という「一種の異界」が描かれている[1]。全18章において、具体的に23時56分から6時52分まで、一夜の不可逆的な時間軸の出来事として(各章、および物語の中にアナログ時計が描かれ、それぞれの物語の開始の時間を示している)、三人称形式と共に、「私たち」という一人称複数の視点から複数の場面(マリ、エリ、高橋、白川、カオルなどの様子)を捉えつつ物語は進む。しばしばその「私たち」は自意識を持つ語り手となるのが特徴である。

<あらすじ>
何かをやり過ごそうとするように真夜中の街に留まる少女・浅井マリと、静かに純粋に眠り続ける浅井エリ、物語は主にこの二人を巡る視点を軸に展開される。「私たち」は真夜中のデニーズで、浅井マリがひとり熱心に本を読んでいる姿を見つける。そこに彼女を知る青年・タカハシが声をかけてくる。一方、暗い部屋の中でひとり眠り続ける、マリの姉エリ。その部屋の片隅にあるテレビが、0時ちょうどになった瞬間奇妙な音を立て始め、そして不可解な映像を映し出す。

<感想>
村上春樹の現代社会に対する疑念・思想をふんだんに盛り込んだ秀作。読み込めば、我々がどうやってこの社会に対処していくべきかの意見も見えてくるでしょう。 法律・IT経済・TVメディアなどの合理性を追求したが故の根本的な欠陥が、暗闇となって陽のあたる時間帯すら凌駕しようとしています。現代社会の問題に対して、我々が現実的にできることは非常に少ないですが、構造の原理を見渡し心持ちを正すことはできると思います。自分もこれを機会に山の頂まで登るかどうかを改めて考えてみたいと思います。本作品はストーリの結論を求めないことで、敢えて「売れる要素」を排除しているように感じます。一般受けしないことは、村上春樹や編集の人もわかっての事でしょう。本に結論(ストーリー性)・娯楽のみを求める人にはおすすめしませんが、元々、現代社会の構造に多少の疑問を感じるような方で、これを機会に見つめ直したいという方には間違いなくおすすめです。

〜『アフターダーク』、村上春樹〜
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『スプートニクの恋人』(☆☆☆:小説おすすめ度)

『スプートニクの恋人』(すぷーとにくのこいびと)は村上春樹の書き下ろし長編小説。1999年4月講談社より刊行され、後に講談社文庫にて文庫化された。この小説は村上自身が語るように、彼の文体の総決算として、あるいは総合的実験の場として一部機能している。その結果、次回作の『海辺のカフカ』では、村上春樹としては、かなり新しい文体が登場することになった。第11章、文中にゴシック体で出てくる「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」(文庫版、202頁)という言葉は村上の「世界認識の方法」(同頁)を表している。

<あらすじ>
「ぼく」の大切な友人である「すみれ」は、いささか変な女の子だった。話し方はいつも怒っているみたいだし、22歳にもなって化粧品一つ持っていなかったし、女の子らしい服もほとんど持っていなかった。それに、ジャック・ケルアックの小説に憧れて、よりワイルドでクールで過剰になろうと髪の毛をくしゃくしゃにしたり、黒縁の伊達眼鏡をかけて睨む様にものを見たりした。ぼくは、すみれに恋をしていたけれど、自分の気持ちを伝えることが出来なかった。なぜなら、すみれ自身は恋をしたことがなかったし、恋をしたいと思ったこともなかったから。ぼくは、すみれに奇跡的に天啓的な変化が起きる事を願いながら、日々の生活をおくっていた。ところが、すみれが22歳の春、彼女は突然恋をした。相手は17歳も年上で、しかも女性だった。ぼくが望むものか どうかはとりあえずとして、天啓はおりた。すみれの恋は生まれ、物語は始まる。未知の恋はすべてを巻き込み、破壊し、失いながら進んでゆく。

<感想>
孤独さが悲しくて仕方が無かったです。この作品は現実の世界を描いていません。人間の生きている世界から、観念的な部分だけを取り出して物語にしたもの。そう思わないと、自分の中の片恋がむき出しになって、つらいのです。けれど、意図的に目を背けて見ないようにしている感情のひとつを思い出させてくれて、今呼吸することの幅を確かに広げてくれる、優れた作品だと思います。

〜『スプートニクの恋人』、村上春樹〜
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『国境の南、太陽の西』(☆☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『国境の南、太陽の西』(こっきょうのみなみ、たいようのにし)は村上春樹の長編小説。1992年10月、書き下ろし長編小説として講談社より発行。1995年10月講談社文庫刊。アメリカのプリンストンで書かれた。『ねじまき鳥クロニクル』を執筆し、第1稿を推敲する際に削った部分が元になり、そこに更に加筆する形で書かれている。

<あらすじ>
本作は幼年時代から中年時代まで、一人の主人公の人生を丁寧に追っており、バブル絶頂期(1988年 - 1989年頃)の東京が主な舞台となっている。僕(ハジメ)は一人っ子という育ちに不完全な人間という自覚を持ちながら育つが、成長と共にそれを克服しようとする。結婚、「ジャズを流す上品なバー」経営の成功などで裕福で安定した生活を手にするが、「僕」の存在の意味を改めて考える。そんな時にかつて好きだった女性が現われて―。

<感想>
村上春樹作品の中で、最も認めている作品のひとつです。いつもと同じように内向的で欠如を抱えた主人公が、これまで出会った重要な女性達(=初恋の人、初体験の人、妻)を愛したり傷つけたりしながら、大人になってしまった自分の社会生活や家庭と向き合っていくストーリです。自分ひとりで煩悶し、妻に問いかけることが全くなかった主人公が、妻にそのことを指摘されてからのポジティブな感じが、他の春樹作品には余りない読み心地を生んでいます。「少年が大人になること」をいつも書いている作者が、一人の男が「大人であろうとすること」に焦点を当てて書いたこの作品の持つ、「救いようの無さ」と「救いの感じ」の両面性が好きです。

〜『国境の南、太陽の西』、村上春樹〜
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『ダンス・ダンス・ダンス』(☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『ダンス・ダンス・ダンス』は、村上春樹の長編小説。1988年に講談社より発刊。上下巻。1991年、講談社文庫刊。俗に言う鼠三部作の続編。よって作中の「僕」は『風の歌を聴け』の主人公と同一人物。他の村上作品と同様、翻訳多数あり。やや抽象的・奇抜な表現や台詞の多かった前三作に比べて作風はずいぶんと変わり、活字の量・物語性が増している。ただし、村上自身は前三作同様に自由に書いたものであるとしている。また、それまでの村上作品に一貫したテーマである、資本主義の高度発展への社会批判、空虚感と孤独感が特徴として挙げられる。『ノルウェイの森』がザ・ビートルズの曲名であるのと同様に、『ダンス・ダンス・ダンス』もアメリカのバンド、ザ・ビーチ・ボーイズのヒットソング名でもある。村上本人はこの小説のタイトルの由来について、「どちらでもいいようなものだけど」と前置きしつつも、「ザ・デルズという黒人バンドの曲名から取った」と述べている。これは、村上が渡欧前に日本で作り持って行った自作オールディーズテープに偶然入れていて、なんとなく聴いているうちに題名に使うことを思い立ったとのことである。この作品の英語翻訳は、未成年の飲酒・喫煙のシーンや、文化的に英語圏の人間にはわかりづらい箇所、ボーイ・ジョージに関する描写などが諸々の理由からカットされている。

<あらすじ>
1983年。フリーのコピーライターとして「文化的雪かき」に従事する「僕」は、何かに呼ばれているような焦燥を感じていた。それを確かめるためには、もう一度「いるかホテル」に戻らなければならない。そこでは誰かが「僕」を求め、「僕」のために涙を流しているのだ。

<感想>
初期三部作の続きで最後の作品。もちろん今後が更なる続編を作る可能性は排除しませんが、おそらく作らないと思っています。村上春樹にしては珍しく後書で、本書の主人公は「原則として」三部作と同人物であると言っています。逆に言うと、そう言わないとそれが分からない読者が多いのではという村上春樹の懸念かもしれません。それほど前の三つの作品との断層があるのだと言う事なのだと思います。この作品で村上春樹はひたすら「死」を扱っています。出てくる登場人物達は現実からのやり直しを求めながらも、どうしようもなく死に取り付かれて死んでいきます。本書を書いていた頃の村上春樹は40歳程度で、欧州で「常駐的旅行者」という立場で放浪していました。そんな疲れと影がどこか本書に漂っている気もしてなりません。本書は評価としては分かれているようです。むしろ元々の村上春樹ファンからは、幾分かマイナス評価を得ている趣もあります。確かに、話がきちんと完結しておらず、答えを出さないというスタイルが本書あたりから村上春樹には出てきたような気がします。その点で、読んでいてもどかしさがあります。但し初期三部作、特に始めの二作に見られた村上春樹のスタイリッシュな軽さの中に、おりのようによどんでいたものがはっきりと主張され始めたという点では貴重な一作だと思います。ストーリーテリングの冴えも申し分ないと思うからです。

〜『ダンス・ダンス・ダンス』、村上春樹〜
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『1973年のピンボール』(☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『1973年のピンボール』 (せんきゅうひゃくななじゅうさんねんのぴんぼーる、英語:Pinball, 1973) は、村上春樹の第二作目の長編小説。デビュー作『風の歌を聴け』から9ヵ月後、文芸誌『群像』1980年3月号に発表された。第83回芥川賞候補作。同年6月に単行本化された。「僕と鼠もの」シリーズの第二作。Pinball, 1973のタイトルで英訳版も発行されている。タイトルは大江健三郎の『万延元年のフットボール』のパロディである。1973年9月に始まり、11月に終わる、「僕」の話であるとともに友人の「鼠」の話で、ピンボールについての小説という形をとる。第1章から第25章まで、「僕」の物語の章と鼠の物語の章に分かれ、二つの物語系列がパラレル(平行)に進行していく。村上は当初、小説をリアリズムで書こうとしたが挫折し、「鼠」の章のみリアリズムで書いたと述べている。

<あらすじ>
さようなら、3フリッパーのスペースシップ。さようなら、ジェイズ・バー。双子の姉妹との“僕”の日々。女の温もりに沈む“鼠”の渇き。やがて来る一つの季節の終り―デビュー作『風の歌を聴け』で爽やかに80年代の文学を拓いた旗手が、ほろ苦い青春を描く三部作のうち、大いなる予感に満ちた第二弾。
「僕」の物語
1973年、大学を卒業し翻訳で生計を立てていた「僕」は、ふとしたことから双子の女の子と共同生活を始めることになる。そんなある日、「僕」の心をピンボールが捉え、1970年のジェイズ・バーで「鼠」が好んでプレイし、その後「僕」も夢中になったスリーフリッパーのピンボール台「スペースシップ」を捜し始める。
「鼠」の物語
鼠は1970年に大学を辞めて以来、故郷の街のジェイズ・バーに通ってバーテンのジェイを相手に現実感のない日々を送っていた。1973年9月不要物売買コーナーを通して女と知り合うが…

<感想>
デビュー作『風の歌を聴け』と『羊をめぐる冒険』の合間の作品で、わりと地味という評価が多いです。話としては双子の登場、ピンボールを巡る幾分シュールな展開もあり、その後の村上春樹の世界を強く予感させる作品です。いくつかの挿話は結局答えが出てこないまま終わっていきます。その辺のもどかしさも、既に村上春樹らしい仕立てになっています。但し叙情性に満ちています。特に、冒頭の井戸掘りの話からはじまり、最後は11月の雨で終わる本作は、いたるところに水のイメージに満ち溢れています。その鮮烈さも捨てがたい魅力です。これが重要だと思うのですが、前期村上春樹の一大命題である「直子」という女性が 本作には登場しています。その悲劇性は既にノルウェイの森の「直子」を予告するものになっています。三部作の真ん中は何でも難しいのですが、個人的には好きな作品です。

〜『1973年のピンボール』、村上春樹〜
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『ねじまき鳥クロニクル』(☆☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『ねじまき鳥クロニクル』(ねじまきどりくろにくる)は、村上春樹の長編小説。
第1部 泥棒かささぎ編(1992年『新潮』10月号〜1993年8月号)
第2部 予言する鳥編(1994年4月 新潮社より書き下ろし)
第3部 鳥刺し男編(1995年8月 新潮社より書き下ろし)
の、3部からなる。
1991年、村上春樹がプリンストン大学に客員研究員として招聘された際、滞在1年目に1部と2部が執筆された。その後、加筆と推敲をあわせて、第3部までが出版されるまでに4年半の歳月が費やされている。村上春樹の小説としては初めて戦争等の巨大な暴力を本格的に扱っている。2002年時点で、単行本・文庫本を合わせて227万部が発行されている。

<あらすじ>
会社を辞め日々家事を営む「僕」と、雑誌編集者として働く妻「クミコ」の生活は、それなりに平穏に過ぎていった。しかし、猫の失跡をきっかけに、あやういバランスが少しずつ狂い始める。
1984年6月から1986年の冬が主な舞台。作品を通して「水」のイメージで書かれている。

<感想>
ひとつの大きな形の定まらないテーマをずっと追っていて、様々な角度から表現しようと試みてるような印象を受けました。衣服・食事・住居に対する意識を強く感じさせられました。その物や行為を通して自分を感じること、支えること表現すること。時間的な縦軸と社会的な横軸にクロスされてる意識と身体。それにまつわって良くも悪くも受け継がれていくもの。さりげない科白にはっとさせられることが多かったです。変えようのない「運命」と自己の「意思」が、場面・人物を違えて何度も錯綜し衝突する、つづれ織りのような小説です。違う場面で繰り返し出てくるキーワードがいくつもあって、一見関係ないお話たちが交錯して一つに繋がっていきます。私は豊富なメタファーの向こうに、「書く」という行為に至った魂の遍歴のようなものを読み取ったような気がします。実は私小説的な意味合いが強い作品なのではないかと思っています。3部作なので読む前は長く感じますが、私はぐいぐいと小説世界に引き込まれていきました。傑作です。

〜『ねじまき鳥クロニクル』、村上春樹〜
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2010年01月18日

村上春樹

村上春樹

村上春樹(むらかみはるき、1949年1月12日 - )は、日本の小説家、米文学翻訳家、エッセイスト。京都府京都市伏見区に生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市に育つ。早稲田大学第一文学部演劇科卒、ジャズ喫茶の経営を経て、1979年『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。当時のアメリカ文学から影響を受けた文体で都会生活を描いて注目を浴び、村上龍とともに時代を代表する作家と目される。
1987年発表の『ノルウェイの森』は上下430万部を売るベストセラーとなり、これをきっかけに村上春樹ブームが起き、以後は国民的支持を集めている。その他の主な作品に『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』など。日本国外でも人気が高く、柴田元幸は村上を現代アメリカでも大きな影響力をもつ作家の一人とする。2006年、特定の国民性に捉われない世界文学へ貢献した作家に贈られるフランツ・カフカ賞を受賞し、以後ノーベル文学賞の有力候補と見なされている。
デビュー以来翻訳の活動もしており、フィッツジェラルドの諸作品やレイモンド・カーヴァー全集のほか、多くの訳書がある。エッセイ、紀行文も多数。

平易で親しみやすい文章は村上がデビュー当時から意識して行ったことであり、村上によれば「敷居の低さ」で「心に訴えかける」文章は、アメリカ作家のブローティガンとヴォネガットからの影響だという[24]。また隠喩の巧みさに定評があり、斎藤環は「隠喩能力を、異なった二つのイメージ間のジャンプ力と考えるなら、彼ほど遠くまでジャンプする日本の作家は存在しない」と評している。
一方、文章の平易さに対して作品のストーリーはしばしば難解だとされる。村上自身はこの「物語の難解さ」について、「論理」ではなく「物語」としてテクストを理解するよう読者に促している。一辺倒の論理的な読解ではなく、「物語を楽しむ」ことがなによりも重要なことだという。また、物語中の理解しがたい出来事や現象を、村上は「激しい隠喩」とし、魂の深い部分の暗い領域を理解するためには、明るい領域の論理では不足だと説明している。このような「平易な文体で高度な内容を取り扱い、現実世界から非現実の異界へとシームレスに(=つなぎ目なく)移動する」という作風は日本国内だけでなく海外にも「春樹チルドレン」と呼ばれる、村上の影響下にある作家たちを生んでいる。なお村上が好んで自身の物語に使用するモチーフに「恋人(妻)の失踪」があり、長編、短編を問わず繰り返し用いられている。

村上の著作は長短編小説のほかエッセイ、翻訳、ノンフィクションなど多岐にわたっており、それらの異なる形態の仕事で意図的にローテーションを組んで執筆している。しかし自身を本来的には長編作家であると規定しており、短編、中編小説を「実験」の場として扱い、そこから得られたものを長編小説に持ち込んでいると語っている[29]。またそれらのバランスをうまく取って仕事をする必要があるため、原則的に依頼を受けての仕事はしないとしている。

村上は1990年代後半より、しきりに「総合小説を書きたい」ということを口にしている。「総合小説」というとき村上が引き合いに出すのはドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』であり、村上自身の言葉によれば「総合小説」とは「いろいろな世界観、いろいろなパースペクティブをひとつの中に詰め込んでそれらを絡み合わせることによって、何か新しい世界観が浮かび上がってくる」ような小説のことを言う。そして「パースペクティブをいくつか分けるためには、人称の変化ということはどうしても必要になってくる」という意識のもとで、村上は「私」と「僕」の物語が交互に語られる『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、一人称の中に手紙や回想が挿入される『ねじまき鳥クロニクル』、すべて三人称で書かれた『神の子どもたちはみな踊る』、一人称と三人称が交互に現れる『海辺のカフカ』、三人称に「私たち」という一人称複数が加わる『アフターダーク』と、作品で人称の変化について様々な試みを行なっている。

村上は自身が特に影響を受けた作家として、スコット・フィッツジェラルド、トルーマン・カポーティ、リチャード・ブローティガン、カート・ヴォネガット、レイモンド・チャンドラーらを挙げている[31]。このほかにフランツ・カフカ、ドストエフスキーらの作家も加わる。また訳書『グレート・ギャッツビー』あとがきにおいて、影響を受けた本としてフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』、チャンドラー『ロング・グッドバイ』、そしてドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の3冊を挙げている。 読売新聞で『1Q84』をめぐる記者との対談に於いて、後期ヴィトゲンシュタインの「私的言語」概念に影響を受けていたことを明かした。
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2009年08月12日

『ノルウェイの森』(☆☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『ノルウェイの森』(ノルウェイのもり)は、村上春樹の長編小説。

<あらすじ>
1987年、37歳になった主人公の「僕」は、ハンブルク空港に到着した飛行機の中で流れるビートルズの「ノルウェイの森」のオーケストラを耳にして、18年前に死んだある女性のことを思い出す。

<感想>
大切な人や大切なものを失い、取り返しのつかないことをしてきてしまったという喪失感を積み重ねて人は生きて行きます。大切な人の信頼を失い、自分が相手のために何もできなかったという深い後悔、でも時間は過ぎて行きます。その強い痛みも時間と共に疼く痛みへと変化していくこと、また人は再生をできるものであること、そのためには逃げることなく正面から向き合っていくこと。そんなことを実感させられる作品でした。直子と緑はどっちが良いか、といったステレオタイプ的比較をすること自体意味がないと感じます。存在、生きている苦しみ、そのおかれている境遇、比較する必要を感じさせないくらい異なっているからです。結局作者が何が言いたいのかなんて、自分がどのくらい受け止めるかだよな、と村上春樹作品を読む度に感じ、やっぱり挑戦されているような気がしてしまいます、今でも。相手の気持ちに鈍感な未熟な恋をした経験があって、別れた経験があって、自分と出会わなければあの人は幸せだったかもしれないと後になり突然気がついた経験があって、それを取り返しのつかない後悔とその後ずっと感じている人には、「じくっ」とした遠い痛みと、「ふわっ」とした救われた感覚が、読後感として残ると思います。

〜『ノルウェイの森』、村上春樹〜
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2009年08月11日

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(☆☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(せかいのおわりとハードボイルド・ワンダーランド)は村上春樹の4作目の長編小説。1985年、第21回谷崎潤一郎賞受賞(30歳代での受賞は大江健三郎以来史上二人目)。

<あらすじ>
[世界の終り]
世界の終りは、一角獣が生息し「壁」に囲まれた街、「世界の終り」に入ることとなった「僕」が「街」の持つ謎と「街」が生まれた理由を捜し求める物語。外界から隔絶され、「心」を持たないが故に安らかな日々を送る「街」の人々の中で、「影」を引き剥がされるとともに記憶のほとんどを失った「僕」は葛藤する。「僕」は図書館の夢読みとして働きつつ、影の依頼で街の地図を作り、図書館の女の子や発電所の管理人などと話をし、街の謎に迫っていく。時間軸的には『ハードボイルド・ワンダーランド』の「私」がシャフリングを行ったのと同時に(すなわち、「私」の思考システムが「第三の思考システム」に切り換わったのと同時に)『世界の終り』のストーリーが始まるものと思われる。
[ハードボイルド・ワンダーランド]
ハードボイルド・ワンダーランドは、近未来と思われる世界で暗号を取り扱う「計算士」として活躍する「私」が、自らに仕掛けられた「装置」の謎を捜し求める物語である。半官半民の「計算士」の組織「システム」とそれに敵対する「記号士」組織「ファクトリー」は、暗号の作成と解読の技術を交互に塀立て競争の様に争っている。「計算士」である「私」は、暗号処理の中でも最高度の「シャフリング」を使いこなせる存在であるが、その「シャフリング」システムを用いた仕事の依頼をある老博士から受けたことによって、状況は一変する。

<感想>
村上春樹の数ある著作の中で完成度が最も高いのは世間の認めるところです。それほどまでに、細部に至るまで精密に計算されつくされています。一章ごとに二つのストーリーがパラレルに展開し、二つの世界は互いに影響しあっています。この二つの物語がつむぎだす緊張感がたまりません。作品冒頭、巨大なエレベーターでポケットのコインを数える印象的なシーン。そして、金色の一角獣、ピンクの太った娘、老博士、夢読み、影、やみくろ、歌の消失した世界、作家の豊かな想像力を見せつける数々のキーワード。2つの話が並行的に語られるが、あまり気にせず本の順序通りに読み進めると、不思議なシンクロ感が味わえます。意表をつく結末も、読む者におおきな宿題を投げつけられたようで、私自身未だ折に触れて読み返してしまう要因かもしれません。それまで、冒険活劇が繰り広げられてきた「ハードボイルドワンダーランド」の結末は、悲しくなるほど穏やかで内省的。主人公が手放さざるをえない“日常”を想ってなぜか涙が出ました。もう一方の「世界の終わり」は、眠りから目覚めたような展開で、希望へとつながっていきそうな描写で終わります。絶対に、読み終わってもすぐには現実世界に戻れず、深い余韻にゆっくり浸りたくなる1冊です。この作品には考えるべく、問題がたくさんあると思います。しかし、そこを気にしなくても、不思議な冒険物語として気軽に読めるでしょう。私は、村上春樹初心者には必ずこの本をおすすめしたいです。最も読みやすく筆者のテイストも伝わるからです。村上春樹の最初の一冊に思い悩んでいる人、これから読み始めたらいいのではないでしょうか。

〜『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、村上春樹〜
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2009年07月25日

『羊をめぐる冒険』(☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『羊をめぐる冒険』(ひつじをめぐるぼうけん)は、村上春樹の長編小説。野間文芸新人賞を受賞。

<あらすじ>
1978年9月。「僕」の新しい「ガール・フレンド」は、「僕」に不思議な予言を告げる。「羊をめぐる冒険」が始まると。
「僕」が「相棒」と共同経営している広告代理店に、大物右翼「先生」の秘書が現われた。彼は「特別な羊」を探せと、「僕」を脅迫する。その「羊」は、「僕」の会社で編集したPR誌上の風景写真に、偶然 写っていたのだった。
「羊」が写っている写真は、「僕」の友人である消息不明の「鼠」によって、北海道から送られてきたものだった。「僕」は会社を辞め、「ガール・フレンド」とともに「羊」の手がかりを求め、「鼠」を探しに北海道へ渡る。

<感想>
「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」とともに、俗に「三部作」と呼ばれる小説の3作目です。前二作を先に読まないと半分も楽しめないかもしれません。「風の歌を聴け」に出てくる主人公「僕」とその親友「鼠」。この二人がとても魅力的な人物で、彼らへの思い入れこそがこの三部作を楽しむ上で最も重要になります。あの二人は文学史に残るアイドルになるかもしれません。夏目漱石の「坊ちゃん」みたいに。二人は「風の歌を聴け」で20歳前後、「1973年のピンボール」で25歳前後、「羊をめぐる冒険」で30歳となります。20歳、25歳の彼らとともに青春の苦悩を味わい、ジェイズバーでビールを飲み、それぞれの恋をし、バーテンのジェイと会話を楽しんだ過去があってこそ、30歳の彼らが遭遇する苦難と冒険にのめりこむことが出来るわけです。「羊をめぐる冒険」は探偵小説のように謎を追うストーリーです。探偵小説と青春小説を混ぜ合わせたような小説。ドラマチックな場面も多いです。三部作の中でも特に人気の高い作品です。前二作と違って整ったストーリーと緻密なプロット、構成の巧みさをも楽しめます。特に終盤が素敵です。ついでに言うと、この続編として「ダンス・ダンス・ダンス」という小説がありますが、こちらはこの「羊をめぐる冒険」に出てきた人物が中心になります。

〜『羊をめぐる冒険』、村上春樹〜
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2009年07月21日

『風の歌を聴け』(☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『風の歌を聴け』 (かぜのうたをきけ) は、村上春樹の第一作となる長編小説。

<あらすじ>
20代最後の年を迎えた「僕」は、アメリカの作家デレク・ハートフィールドについて考え、文章を書くことはひどく苦痛であると感じながら、1970年の夏休みの物語を語りはじめる。

<感想>
何気に読んだ『ノルウェイの森』の魅力にハマり、次に読んでみたのがデビュー作のこの小説でした。最初は、『ノルウェイの森』の暗く重々しい感じとは全く違うこの小説の妙な軽さに面食らいました。それでも、相変わらず脈略の無いストーリーの中に唐突に出現するあまりに印象的なフレーズは実に強烈です。私の心に残ったのは、1ページ目に登場する次の文。「あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの苦痛ではない。」この一文、ストーリーには全く関係ないのですが、読後に私はこのフレーズを心に刻みました。この小説は「若き作家の卵」村上春樹の意地が凝縮されています。生まれ持っての文才も去ることながら、様々な海外文学からの引用や、綿密にリズムが計算された文体など、とにかく練りに練って考え抜かれた文章なのだと思います。全体に軽く感じてしまうのは、そのような「意図して作られた文体」をあえて隠すためでしょう。デビュー作なだけに、渾身の力を込めていたはずです。

〜『風の歌を聴け』、村上春樹〜
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2009年07月20日

『海辺のカフカ』(☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『海辺のカフカ』(うみべのカフカ)は村上春樹の長編小説。

<あらすじ>
四国の高松市に移り住み、自立することを願う主人公「僕」と、東京都中野区野方に住み、猫と話ができる不思議な老人、ナカタさんに次々と起こる、または過去に起こった出来事をパラレルに追う構成となっている。主人公の「僕」は15歳の誕生日に家出をして、「世界で最もタフな15歳になる」ことを決意し、四国へと向かう。そこで「僕」は父親にかけられた呪いについて立ち向かうことになる。
一方、もうひとつの物語では60年ほど前に起きた、戦時下の「ある奇妙な事件」についての文書が公開される。様々な当時の関係者がそれぞれの立場から意見を述べることにより、その事件の実態が浮き彫りとなっていく。そして証言者の一人の思いがけない告白に、真相もより明らかになってゆく。「僕」が家出をした同じ頃、東京都の補助で暮らしているナカタさんは迷い猫の捜索を引き受けるが、その後、事態は思いがけない方向へと向かう。
2つの物語はやがて「入り口の石」を巡り近づいてゆく。

<感想>
まずこの作品は読者の創造力が試される小説だと思います。読者のイメージ(創造力)を重視し、謎は謎のままあえて具体化してない点が良さかと思います。佐伯さんは、15歳の佐伯さんなのか50歳の佐伯さんなのか、田村カフカが愛したのはどちらなのか。またその佐伯さんを女性として愛したのか、失った母を求めたのか。また、佐伯さんはカフカに対し過去に失った恋人を求めたのか、それとも子供への愛なのか。過去と現在の時の狭間で動く心に永遠というテーマを感じました。また、ナカタさんという人間が入り口を開けてまた締めるというトリガーとして登場していますが、不思議な存在感を発揮し、作品全体の雰囲気を穏やかで神秘性のあるものにしているところも魅力かと思います。現実性に関し厳しい書評が多いですが、この作品に現実性は求める必要は無く、むしろ現実性は排除して読めば充分楽しめます。

〜『海辺のカフカ』、村上春樹〜
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2009年07月06日

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『ライ麦畑でつかまえて』(ライむぎばたけでつかまえて, 英:The Catcher in the Rye)は、J・D・サリンジャーが1951年に発表した小説である。サリンジャーの不朽の青春文学『ライ麦畑でつかまえて』が村上春樹の訳により、新時代の『ライ麦畑でつかまえて』に生まれ代わりました。

<あらすじ>
大戦後間もなくのアメリカを舞台に、主人公のホールデン・コールフィールドが3校目に当たるボーディングスクールを成績不振で退学させられたことをきっかけに寮を飛び出し、実家に帰るまでニューヨークを彷徨する3日間の話。

<感想>
とにかく読み易く、あまり本を読まないという10代後半の学生には是非とも一度は読んでほしい一冊です。難しい言葉も使われていない為、無駄に頭を使うことなくすんなりとストーリーにワープすることができるはずです。大人と子どもの中間であるホールデンの白黒付け難い微妙な心境がまるで過去の自分を望遠鏡で眺めているようで非常に考えることが多かったです。"現実社会"を知ってしまったからこそ分からなくなってしまったこと。知らないからこそ分かること、見えること。大人と子ども。嘘と真実。矛盾と逆説のなかで生きるということを悟らさせられるたのが私がこの本を読んだときの収穫です。ファンタジーやSFのような想像のなかでの感動ではなく、もっと身近な感覚で感じることができます。10代後半の学生は特に大人と子どものボーダーが曖昧であるからホールデンの社会批判、あるいは自己嫌悪、混沌とした視界の中のストーリーに強く感じるものがあるのではないでしょうか。

〜『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、村上春樹〜
posted by 推理小説家 at 20:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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