2010年01月19日

森鴎外

森鴎外

森鴎外(もりおうがい、文久2年1月19日(1862年2月17日)- 大正11年(1922年)7月9日)は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、戯曲家、陸軍軍医(軍医総監(中将相当))、官僚(高等官一等)。正四位・勲二等・功三級・医学博士・文学博士。 石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。本名は森 林太郎(もり・りんたろう)。東京帝国大学医学部卒業。第一次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称されている。

大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツで4年過ごした。帰国後、訳詩編『於母影』、小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表し、また自ら文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、軍医総監(中将相当)となり、一時期創作活動から遠ざかったが、『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『雁』などを執筆。乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』発表後は、『阿部一族』『高瀬舟』などの歴史小説、史伝『渋江抽斎』を書いた。
なお、帝室博物館(現在の東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任した。

森鴎外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突する。また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老などと6年ほど論争を続けた。
また、鴎外の論争癖を発端として論争が起きた事もある。逍遥が「早稲田文学」にシェークスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草紙』に載せたことから論争が始まった。このような形で鴎外が関わってきた論争は「戦闘的評論」や「論争的啓蒙」などと評される。もっとも三十歳代になると、日清戦争後に『めさまし草』を創刊して「合評」をするなど、評論的啓蒙活動は、戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった。さらに、小倉時代に「圭角が取れた」という家族の指摘もある。

肩書きの多いことに現れているように、鴎外は文芸活動の幅も広かった。たとえば、訳者としては、上記の訳詩集『於母影』(共訳)と、1892-1901年に断続的に発表された『即興詩人』とが初期の代表的な仕事である。『於母影』は明治詩壇に多大な影響を与えており、『即興詩人』は、流麗な雅文で明治期の文人を魅了し、その本を片手にイタリア各地をまわる文学青年(正宗白鳥など)が続出した。
また鴎外は、戯曲の翻訳も多く(弟の竹二が責任編集をつとめる雑誌『歌舞伎』に掲載されたものは少なくない)、歌劇(オペラ)の翻訳まで手がけていた。ちなみに、訳語(和製漢語)の「交響楽、交響曲」をつくっており、6年間の欧米留学を終えた演奏家、幸田延(露伴の妹)と洋楽談義をした(「西楽と幸田氏と」)。そうした外国作品の翻訳だけでなく、帰国後から演劇への啓蒙的な評論も少なくない。
翻訳は、文学作品を超え、ハルトマン『審美学綱領』のような審美学(美学の旧称)も対象となった。単なる訳者にとどまらない鴎外の審美学は、坪内逍遥との没理想論争にも現れており、田山花袋にも影響を与えた。その鴎外は、上記のとおり東京美術学校(現東京藝術大学)の嘱託教員(美術解剖学・審美学・西洋美術史)をはじめ、慶應義塾大学の審美学講師、「初期文展」西洋画部門などの審査員、帝室博物館総長や帝国美術院初代院長などをつとめた。
交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。しかし、教師でもあった漱石のように弟子を取ったり、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した鴎外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。
文学者・文人に限っても、訳詩集『於母影』は5人による共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、鴎外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人をまねいて開かれた。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月までつづいた。伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斉藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて延べ22名)。
また、当時としては女性蔑視が少なく、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価した。晶子(出産した双子の名付け親が鴎外)やらいてうや純芸術雑誌「番紅花」(さふらん)を主宰した尾竹一枝など、個性的で批判されがちな新しい女性達とも広く交際した。その鴎外の作品には、女性を主人公にしたものが少なくなく、ヒロインの名を題名にしたものも複数ある(『安井夫人』、戯曲『静』、『花子』、翻訳戯曲『ノラ』(イプセン作『人形の家』))。
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2009年09月07日

『うたかたの記』(☆☆☆:小説おすすめ度)

『うたかたの記』(うたかたのき)は、森鴎外の短編小説。1890年(明治23年)、雑誌『しがらみ草紙』に発表。1892年(明治25年)7月、作品集『美奈和集(水沫集)』に『舞姫』『文づかひ』とともに収録。2作品とともに森鴎外のドイツ三部作の一部を為す。

<あらすじ>
ドイツ・バイエルン王国の首都ミュンヘン。日本画学生の巨瀬は、以前ドレスデンで一目ぼれをした花売り娘のマリー・ハンスルと再会する。巨瀬はマリーの面影が忘れられず、自作のローレライのモデルとしていた。マリーはいきなり巨瀬に接吻する。驚く巨瀬に、同行していた友人のエスキテルは彼女は美術学校のモデルだが狂っていると教える。
巨瀬は、自分のアトリエにマリーを呼び彼女への熱い思いを伝える。話をする内に、マリーには高名な画家の父ステインベルグと彼女と同名の美しい母親がいたことがわかる。母はバイエルン国王ルードヴィヒ2世に懸想されていた。父は国王の毒牙から妻を守って死に、母も悲しみのあまり後を追うようにして死ぬ。孤児となったマリーはアルプス近くのスタルンベルヒ湖の漁師ハンスル家に引き取られたことがわかる。
マリーは、父のように美術を学ぶためモデルとなっているが、誘惑の多い都会で身を守るためにわざと狂った振りをしていると明かす。
マリーに誘われるまま巨瀬はスタインベルヒ湖に向かう。愛を確認した二人は、雨の湖の周囲を散策し船で遊ぶ。村外れの岸辺に漕ぎ寄せると、母マリーの想い止みがたく狂人となっていた国王がいた。国王は、マリーの姿に母の幻影を見て彼女に襲いかかる。マリーは恐怖のあまり湖に没する。国王も止めようとした侍医グッデンもろとも湖に沈む。
巨瀬はマリーを助けるが、杭に胸を打ったのがもとで死んでしまう。国王の葬儀の日、心配したエスキテルが巨瀬のアトリエを訪問すると、彼は憔悴しきってローレライの絵の前に跪いていた。

<感想>
日本で文豪と称される人は多数いますが、本来それに該当するのは、夏目漱石とこの森鴎外、ただ二人であることは疑い様がありません。文体の違いで読みにくいこともあるでしょうが、まず間違いなく読んでいて損はないものです。

〜『うたかたの記』、森鴎外〜
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2009年08月12日

『舞姫』(☆☆☆:小説おすすめ度)

『舞姫』(まいひめ)は、森鴎外の短編小説。1890年(明治23年)、『国民之友』に発表。森鴎外が1884年から4年間ドイツへ医学を学ぶために留学した時の体験を下敷きにして執筆された。主人公の手記の形をとり、その体験を綴る。高雅な文体と浪漫的な内容で初期の代表作。本作と他二作は独逸三部作(浪漫三部作)と呼ばれる。

<あらすじ>
19世紀末、ドイツ留学中の官吏、太田豊太郎は下宿に帰る途中、クロステル通りの教会[3]の前で涙に暮れる美少女エリスと出会い、心を奪われる。父の葬儀代を工面してやり、以後清純な交際を続けるが、仲間の讒言によって豊太郎は免職される。
その後豊太郎はエリスと同棲し、生活費を工面するため新聞社のドイツ駐在通信員という職を得た。エリスはやがて豊太郎の子を身篭る。友人である相沢謙吉の紹介で大臣のロシア訪問に随行し信頼を得ることができた。復職のめども立ち、また相沢の忠告もあり、豊太郎は日本へ帰国することを約する。
しかし豊太郎の帰国を心配するエリスに彼は真実を告げられず、その心労で人事不省に陥り、その間に相沢から事態を知らされたエリスは衝撃の余りパラノイアを発症した[4]。治癒の望みが無いと告げられたエリスに後ろ髪を引かれつつ、豊太郎は日本に帰国する。「相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我が脳裡に一点の彼を憎む心今日までも残れりけり。」豊太郎の心からの呟きであった。

<感想>
文体が読みにくいかもしれませんが、慣れている方にはなんともないかもしれません。それに短いですし。この文体は当時は「ハイカラでモダン」と言われていたそうですが、今読んでも素敵な文章だなとうっとりしました。家名再興、立身出世を意気込んでベルリンに留学した豊太郎が封建的な官僚機構などなどに縛られた自分に疑問を持ち自我に目覚める。踊り子エリスとの交際を中傷され免官された豊太郎はエリスと幸せな日々を送るが、友人の尽力によって日本での社会復帰の機会を得る。故国への思いや名誉回復の願いとエリスとの愛のジレンマで苦悩するが結局はエリスとそのお腹にいる子を捨て帰国する。自我に目覚めてしまった知識人の苦悩と挫折が巧みな筆致で書かれていて感動します。私はベルリンの街の描写がすごく好きです。あと帰路の船の中ではどんなこと考えてたんだろうと考え始めるととても切ないです。

〜『舞姫』、森鴎外〜
posted by 推理小説家 at 20:22 | Comment(0) | TrackBack(1) | 森鴎外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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