2010年01月17日

三島由紀夫

三島由紀夫

三島由紀夫(みしまゆきお、本名:平岡公威(ひらおかきみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は、小説家・劇作家。晩年には民兵組織「楯の会」を作り右翼的な政治活動に傾倒、日本の新右翼・民族派に多大な影響を及ぼした。

代表作は小説に『仮面の告白』、『禁色』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『豊饒の海』四部作など。戯曲に『サド侯爵夫人』、『わが友ヒットラー』、『近代能楽集』などがある。批評家が様々に指摘するように、人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。
1970年、楯の会会長として自衛隊にクーデターを促し失敗、割腹自殺を遂げ世間を騒然とさせた(三島事件)。
筆名の「三島」は、日本伝統の三つの島の象徴、静岡県三島の地名に由来するなどの説がある。
三島の著作権は酒井著作権事務所が一括管理している。

1946年(昭和21年)、鎌倉に在住していた小説家・川端康成の元を訪ね、短編「中世」、「煙草」を渡す。当時、鎌倉文庫の幹部であった川端は、雑誌『人間』(編集人木村徳三)に「煙草」の掲載を推薦した。これが文壇への足がかりとなり、以来、川端とは生涯にわたる師弟関係となる(ただし三島自身は終生、川端を「先生」とは絶対に呼ばず、「川端さん」と呼ぶことに固執していた)。同年、敗戦前後に渡って書き綴られた「岬にての物語」が文芸雑誌『群像』に掲載される。
1947年(昭和22年)1月、太宰治、亀井勝一郎を囲む集いに参加。この時、三島は太宰に対して面と向かって「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言い切った。このときの顛末について、後の三島自身の解説によれば、この三島の発言に対して太宰は虚を衝かれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えた、と解説されている。しかし、その場に居合わせた編集者の野原一夫によれば、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけた、という。
1947年11月、東京大学法学部(旧制)卒業(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。日本勧業銀行の入行試験を受験したが、先述の通りの健康上の理由により不採用となった。しかし高等文官試験には合格し(成績は167人中138位)、一時宮内省入省の口利きがあったが、結局は父の慫慂により大蔵省事務官に任官。同じく学習院から東大を経て大蔵省入りした先輩に橋口収、入省同期に長岡實がいる。銀行局国民貯蓄課に配属されるが(銀行局長に愛知揆一、主計局長に福田赳夫がいた)、以降も小説家としても旺盛な創作活動を行う。初の長編「盗賊」を発表する。この頃、小説家・林房雄と出会う。 この勤務時代にはその文才を買われて大蔵大臣の国会答弁の原稿を頼まれたことが何度かあったが、いずれも簡潔明瞭すぎて、解釈が一通りしかできず、没にされた(官僚界の常識として、話の内容を幾通りにも解釈できるようにしてできるだけ言質を取られないようにする、というのがある)。挙句の果てには「笠置シヅ子さんの華麗なアトラクションの前に、私のようなハゲ頭がしゃしゃり出るのはまことに艶消しでありますが、……」ではじまる大蔵大臣のあいさつ原稿を書き、没にされたことがある(当時の大蔵大臣は北村徳太郎)。
1948年(昭和23年)、雑誌『近代文学』の第二次同人拡大に際し参加(この件りは『私の遍歴時代』に詳しい)。河出書房の編集者坂本一亀から書き下しの長編を依頼され、役所勤めと執筆活動の二重生活による無理が祟り渋谷駅ホームから転落、危うく電車に轢かれそうになったため、9月には創作に専念するため大蔵省を退職した(この転落事故が原因で、官僚を辞めて作家業に専念することを、ようやく父梓が許可した)。
1949年(昭和24年)7月、書き下ろし長編小説『仮面の告白』を出版。同性愛を扱った本作はセンセーションを呼び、高い評価を得て作家の地位を確立した。以降、書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を1950年(昭和25年)に、『禁色』を1951年(昭和26年)にそれぞれ発表。戦後文学の旗手として脚光を浴び、旺盛な活動を見せた。
1951年12月には、朝日新聞特別通信員として世界一周旅行へ、旅客船で出発した(この世界一周旅行の実現には、父梓の一高時代の同期である嘉治隆一が尽力している)。北米・南米・欧州を経て、翌年8月に帰国。

三島由紀夫と石原慎太郎(1956年)世界一周旅行中に三島が発見した「太陽」「肉体」「官能」は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼすことになる。帰国後の1955年(昭和30年)頃から、三島はボディビルを始めるなど「肉体改造」に取り組み始める。元々163cmと平均的な身長に加え先述の通りの虚弱体質であったが、弛まぬ鍛錬で後に知られるほどの偉容を備えた体格となった。古典的文学、特に森鴎外に注目するなどして、「文体改造」も行った。その双方を文学的に昇華したのが、1950年の青年僧による金閣寺放火事件を題材にした長編小説『金閣寺』(1956年)である。この作品は三島文学の代表作となった。
この時期の三島は、三重県神島を舞台とし、ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』(1954年)をはじめ、『永すぎた春』(1956年)、『美徳のよろめき』(1957年)などのベストセラー小説を多数発表。作品のタイトルのいくつかは流行語(「よろめき」など)にもなり、映画化作品も多数にのぼるなど、文字どおり文壇の寵児となる。同時期には『鹿鳴館』、『近代能楽集』(ともに1956年)などの戯曲の発表も旺盛に行い、文学座をはじめとする劇団で自ら演出、出演も行った。銀座6丁目の小料理屋「井上」の2階で独身時代の正田美智子と見合いを行ったのもこの時期のことであると考えられている[13][14]。

1959年(昭和34年)、三島は書き下ろし長篇小説『鏡子の家』を発表する。起稿から約2年をかけ、『金閣寺』では「個人」を描いたが本作では「時代」を描こうとした野心作だった。奥野健男はこれを「最高傑作」と評価したが、平野謙や江藤淳は「失敗作」と断じ、世間一般の評価も必ずしも芳しいものではなかった。これは、作家として三島が味わった最初の大きな挫折(転機)だったとされている。同年1月には『文章読本』を『婦人公論』に発表している。
その後、文壇の寵児として、『宴のあと』(1960年)、『獣の戯れ』(1961年)、『美しい星』(1962年)、『午後の曳航』(1963年)、『絹と明察』(1964年)などの長篇や『百万円煎餅』(1960年)、『憂国』(1961年)、『剣』(1963年)などの短篇小説、『薔薇と海賊』(1958年)、『熱帯樹』(1960年)、『十日の菊』(1961年)、『喜びの琴』(1963年)などの戯曲を旺盛に発表した。
私生活では、1958年(昭和33年)に日本画家・杉山寧の長女瑤子と結婚。大田区南馬込にビクトリア風コロニアル様式の新居を建築し(設計・施工は清水建設)、その充実ぶりを謳歌する一方、『宴のあと』をめぐるプライバシー裁判(1961年〜)での敗訴(後、原告有田八郎の死去に伴い和解)や、深沢七郎『風流夢譚』をめぐるいわゆる嶋中事件に関連して右翼から脅迫状を送付され、数ヶ月間警察の護衛を受けて生活することを余儀なくされる(1961年)など、様々なトラブルにも見舞われた。この時の右翼に対する恐怖感が後の三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、とする実弟の平岡千之の推測がある。
『喜びの琴』をめぐる文学座公演中止事件(喜びの琴事件、1963年)など、安保闘争を経た時代思潮に沿う形でいわゆる『文学と政治』にまつわる事件にも度々関与したが、このときはまだ晩年におけるファナティックな政治思想を披瀝するほどの関わりをもつことはなかった。1962年(昭和37年)にはすでに後の『豊饒の海』の構想が固まってもいる。
この頃からボディビルに加えて剣道を始める。永田雅一の肝煎りで大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演したり(1960年)、写真家細江英公の写真集『薔薇刑』のモデルになる(1963年)など、その鍛え上げられた肉体を積極的に世間に披露した。このような小説家以外での三島の数々の行動に対しては、一部で「露悪的」として嫌悪する見方がある一方、戦後マスメディア勃興期においていち早くマスメディアの効用を積極的に駆使し、いわゆる「マスコミ文化人の先駆」と位置づけて好意的に見る向きもある。
この時期には、三島文学が翻訳を介してヨーロッパやアメリカなどで紹介されるようになり、舞台上演も数多く行われた(世界各国への三島文学紹介者として、ドナルド・キーンやエドワード・サイデンステッカーなどが著名)。以降、三島作品は世界的に高く評価されるようになる。

自らライフワークと称した四部作の小説『豊饒の海』の第一部『春の雪』が1965年(昭和40年)から連載開始された(〜1967年)。同年、戯曲『サド侯爵夫人』も発表。ノーベル文学賞候補として報じられ、以降引き続き候補としてその名が挙げられた。
同時期に自ら主演・監督した映画作品『憂国』の撮影を進め(1965年、翌年公開)、『英霊の声』(1966年)、『豊饒の海』第二部『奔馬』(1967年〜1968年)と、美意識と政治的行動が深く交錯し、英雄的な死を描いた作品を多く発表するようになる。
1966年(昭和41年)12月には民族派雑誌『論争ジャーナル』の編集長万代潔と出会う。以降、同グループとの親交を深めた三島は、民兵組織による国土防衛を思想。1967年(昭和42年)にはその最初の実践として自衛隊に体験入隊をし、航空自衛隊のロッキードF-104戦闘機への搭乗や、『論争ジャーナル』グループと「自衛隊防衛構想」を作成。自衛隊幹部の山本舜勝とも親交した。政治への傾斜とともに『太陽と鉄』『葉隠入門』『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。同年9月、インド・タイなどへ旅行。そのときの体験は後『暁の寺』に結実[15]。
1968年(昭和43年)、『豊饒の海』第三部『暁の寺』(〜1970年刊行)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。同年11月3日、『論争ジャーナル』グループを中心に民兵組織「楯の会」を結成する。
1969年(昭和44年)、曲亭馬琴原作の歌舞伎台本『椿説弓張月』(主演は8代目松本幸四郎)、戯曲『癲王のテラス』(主演は北大路欣也)を発表。
1969年2月に東大全共闘主催の討論会に出席し、当時東大の学生であった芥正彦、小阪修平らと国家・天皇などについて激論を交わす(討論記録は新潮社)。「もし君らが、『天皇陛下万歳』と叫んでくれたら、共に戦う事ができたのに、言ってくれないから、互いに”殺す殺す”と言っているだけさ」と、意外な近似の面を覗かせた。同年、映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演し、勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演(薩摩藩士田中新兵衛役)。同年、楯の会の運営資金の問題をめぐり『論争ジャーナル』グループと決別し、楯の会に残った日本学生同盟の森田必勝らは後の三島事件の中心メンバーとなる。
1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした後割腹自殺した(三島事件)、45歳没。決起当日の朝、担当編集者(小島千加子)の手に渡った『豊饒の海』第四部『天人五衰』最終話(1970年夏にはすでに結末部は脱稿していたが、日付は11月25日と記載)が最後の作品となった。戒名は、彰武院文鑑公威居士。現在、忌日は、三島由紀夫研究会による憂国忌(主に九段会館)をはじめ、全国各地で民族派諸団体が追悼の慰霊祭を行っている。
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2009年09月07日

『仮面の告白』(☆☆☆:小説おすすめ度)

『仮面の告白』(かめんのこくはく)は、三島由紀夫による長編小説で作者の自伝的作品である。

<あらすじ>
「私」による一人称、告白体の形式によって、「私」の生い立ちから青年期までを描いていく三島の自伝的小説である。祖母を中心とした家族との関わり、学習院における同性愛的経験、友人の妹との恋愛と裏切りなどの出来事が、第二次世界大戦期、戦後期の時代背景の中に描かれている。当時、同性愛というテーマを扱ったことはセンセーショナルな話題を呼び、この作品は三島を一躍有名作家とした。
三島はこの小説の冒頭で、フョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』第3編「熱烈なる心の詩」の文章を引用している。

<感想>
三島由紀夫が、自分が生まれてから二十四年間の間に被り続けてきた「仮面」を剥がし、赤裸々に告白していく自伝的小説。まず、自分の一つ一つの行動や思考をこれでもかというほど精密に、そして明晰に分解していく三島の分析力に凄みを感じ、そして結局、最後はいつも自己否定の形に陥ってしまう、彼のガラスのような繊細さを感じました。また私は、三島が「男にしか肉慾を感じない」、というのはよく言われていることなのかもしれませんが、彼自身の身体的な劣等感から来ていると読み取りました。彼が男に肉慾を感じるのは、強度の「憧れ」の力に依るものであり、彼が男性のマッチョを想像するときは、いつも最後に、その胴体が血で染まることを連想するので、三島は自分に無いもの、つまり「知性」ではなく「肉体」を保持したものに対する強い憧れと、それ以上の嫉妬を持っており、それが彼を男色に向かわせたのではないかと思います。さらに戦時下の状況を念頭に入れて考えると、身体的な劣等に依り、戦争に行けなかった三島の肉体的なコンプレックスが、愛憎混じる彼の同性への肉慾を、さらに増長させた様な気もします。そして、後半部を占める、三島が「自分は園子を愛しているのか?」という主題は、私はそれは愛だと思いました。やはり三島は園子にも肉慾を感じませんが、それにも拘らず、園子が他人と結婚した後も定期的に会って会話している様子を見ると、それは正にプラトニックな愛だと思うのです。肉慾や性欲が湧くかどうかが、「愛」の定義ではないと思います。上記のように、三島はその強い憧れから、「肉慾」的には同性を嗜好したのでしょうが、「精神」的にはきっとちゃんと女性を愛せる人だったのではないでしょうか。いずれにせよ三島は、極めて純粋な男であり、そしてその明晰過ぎる頭脳ゆえに、相当生き難い想いをした人だったのではないかと思います。

〜『仮面の告白』、三島由紀夫〜
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2009年08月15日

『金閣寺』(☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『金閣寺』(きんかくじ)は、三島由紀夫の長編小説。1956年、『新潮』1月号から10月号に連載され、同年10月末に新潮社から刊行され、翌年に読売文学賞(小説部門)を受賞。累計売上330万部を超えるベストセラー小説である。精緻な文体で記述され、近代日本文学を代表する傑作の一つと見なされる。多数の言語に訳され、海外でも評価は高い。現実の事件を題材にとり、「偽の告白」をする、というふうに本人が述べているが、このことは特に本作品に当てはまる。

<あらすじ>
金閣寺放火事件に材を求め、金閣寺の美にとりつかれた「私」こと林養賢を描く。事件の原因として養賢のもつ重度の吃音を核に置いている。
養賢は、吃音のため自己の意思や感情の表現ができず、戦前当時の軍国的な若者たち、同年代の女性たちと自分とのあいだに精神的な高い壁を感じていた。養賢には吃音以外、身体に何の障害も無かったのだが、それだけのために青春期らしき明るさも恋愛もすべて抛棄して生きていた。養賢は、少年期より父から金閣寺の話を繰り返し聞いていた。その話の金閣は、常に完璧な美としての金閣であり、養賢は金閣寺を夢想しながら地上最高の美として思い描いていた。
やがて養賢は、僧侶で病弱であった父の勧めで、父の修業時代の知人が住職を務めていた金閣寺に入り、修行の生活を始める。同時に仏教系の大学に通い始めるのだが、そこで足に内反足の障害をもち松葉杖をつきながら移動する、いつも教室の片隅でひっそりとたたずんでいる級友柏木と、美しい心を持っていると信じた鶴川に出会う。一見した柏木の障害に自分の吃音を重ね合わせ、僅かな友人を求めるべく話しかけた養賢だったが、かれは実は女性を扱うことにかけては詐欺師的な巧みさを持ち、高い階層の女性を次々と籠絡している男であった。障害を斜に構えつつも克服し、それどころか利用さえして確信犯的に他人への心の揺さぶりを重ねることでふてぶてしく生きる柏木の姿を、当初は全く理解し難いと思っていた養賢だが、精神的な距離を置きつつも友人を続けていた。柏木の養賢への批評はいつも心臓を抉り出す様に残酷で鋭く、養賢の心の揺れや卑怯を常に蔑み、突き飛ばすものであった。養賢は、そんな柏木から女性を紹介されたり、笛を教えて貰うことで曲がりなりにも若い自分の人生の一ページを刻んでいた。もう一人の友人の鶴川は、養賢に対し本心を開かないまま自殺して人生を閉じる。鶴川は、自殺の前に柏木のみに本心を打ち明けていた。
一方、寺での養賢は当初、理由は分からないが住職にかわいがられている存在であった。母は、養賢が将来の金閣寺住職になることに強い期待を抱いていたが、養賢にはそのような俗欲が無い、と言うよりも端から理解できず、そして母の期待に応える気持ちも無いため、大学を休んだり金閣寺を抜け出したりしては叱責されていた。母は、必死に住職に謝ることで何とか養賢の将来をつなごうと努力するが、養賢は住職が愛人といるのを偶然見かけた後、住職にそのことを揶揄することで、みずから決定的に将来の望みを断ち切った。自己の将来を完全に断ち切り、世俗的な自分の存在理由を無にしてしまったその後、養賢は自己の美学を完遂すべく金閣寺の放火を決意する。

<感想>
誰の心の中にも絶対的に超えられないと感じる何かがきっとあるものです。それが三島由紀夫にとっての金閣寺であったわけです。人が生きて行く上で様々なものからのプレッシャーを感じながら生きています。両親やルール、先輩などから。偉大な金閣寺との関係もさる事ながら、人間関係の描写が人の深い部分を全て出した感じで生生しさと共に面白さも感じました。中学生の頃に読もうとして挫折した作品ですが、大人になり人というものが少しはわかってきたので、面白くて一気に読む事ができました。あと、作者独特の情景描写が素晴らしいです。人間関係だけでなく情景にも注目して読んでみると面白さの増す作品だと思う。

〜『金閣寺』、三島由紀夫〜
posted by 推理小説家 at 22:06 | Comment(0) | TrackBack(1) | 三島由紀夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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