2009年12月31日

安部公房

安部公房

安部公房(あべこうぼう、1924年3月7日 - 1993年1月22日)は、日本の小説家、劇作家、演出家。
東京府北豊島郡(現東京都北区)生まれ(本籍地は北海道旭川市)。少年期を満州で過ごす。高校時代からリルケとハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、30ヶ国以上で翻訳出版されている。
主要作品は、小説に『壁 - S・カルマ氏の犯罪』(同名短編集の第一部。この短編で芥川賞を受賞)『砂の女』(読売文学賞受賞)『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』など、戯曲に『友達』『棒になった男』『幽霊はここにいる』などがある。劇団「安部公房スタジオ」を立ちあげて俳優の養成にとりくみ、自身の演出による舞台でも国際的な評価を受けた。晩年はノーベル文学賞の候補と目された。

満州医科大学(現・中国医科大学)の医師である父・安部浅吉と、母・よりみの長男として生まれる。1925年、1歳の時に家族と共に満州(現・中国東北部)に渡り、奉天市(現・瀋陽市)で幼少期を過ごす。小学校では実験的な英才教育を受けている。1940年に満洲の旧制奉天第二中学校を4年で卒業。帰国して旧制成城高等学校(現・成城大学)理科乙類に入学。冬に、軍事教練の影響で肺浸潤にかかり休学し、奉天の実家に一時的に帰って療養する。
1943年9月、戦時下のため繰上げ卒業し、10月に東京帝国大学医学部医学科に入学。1944年20歳の時に文科系学生の徴兵猶予が停止されて次々と戦場へ学徒出陣していく中、「次は理科系が徴兵される番だ」と感じた事と「敗戦が近い」という噂を耳にして家族が心配になり、大学に届けも出さずに、年末に船で満州に帰ったので、親友が代返をして繕ってくれる。1945年は実家で開業医となった父の手伝いをして過ごし8月15日の終戦を迎える。
1945年の冬に発疹チフスが大流行して、診療にあたっていた父が感染して死亡する。1946年に敗戦のために家を追われ、奉天市内を転々としながらサイダー製造などで生活費を得る。年末、引き上げ船にて帰国。小説が何冊も書けるような体験をしたはずだが、それを題材にすることはなかった。(本人は『新潮日本文学46 安部公房集』の付録小冊子において「ぼくが私小説を書かない理由」を記している)満洲を舞台にした唯一の長編小説『けものたちは故郷をめざす』も体験とはかけ離れている。北海道の祖父母宅へ家族を送りとどけてから、東京にもどる。
1947年3月、女子美術専門学校(現・女子美術大学)の学生で日本画を専攻していた山田真知子(後年、画家として安部の作品の装訂や舞台美術を手掛けることになる)と学生結婚する。1948年に卒業するが、医師国家試験は受験しなかった。(卒業口答試験では人間の妊娠月数を二年です、と答えるなどひどいものだったが、結局医者にならないことを条件に卒業単位を与えられた)
1947年に、安部は満洲からの引き上げ体験のイメージに基づく『無名詩集』を、謄写版印刷により自費出版した。詩人ライナー・マリア・リルケや哲学者マルティン・ハイデッガーの影響を受けたこの62ページの詩集には、失われた青春への苦悩と現実との対決の意思が強く込められていた。
同年、安部は「粘土塀」と題した処女長編を、成城高校時代のドイツ語担当教員・阿部六郎に持ち込んだ。この長編は、一切の故郷を拒否する放浪の後に、満洲の匪賊の虜囚となった日本人青年が書き綴った、3冊のノートの形式を取った物語であった。「粘土塀」の内容に深い感銘を受けた阿部は、この作品を文芸誌『近代文学』の創刊者の一人である埴谷雄高に送り、「粘土塀」の内の「第一のノート」が翌年2月の『個性』に掲載された。この作品が縁となって、安部は埴谷雄高、花田清輝、岡本太郎らの運営する「夜の会」に入会した。埴谷、花田らの尽力により、1948年10月に「粘土塀」は『終りし道の標べに』と題されて真善美社から一冊の単行本として刊行された。埴谷は安部を高く評価しており、後の『壁』の書評においては、安部が自分の後継者であるばかりか、自分を越えたとまで述べている。1950年には、勅使河原宏や瀬木慎一らと共に「世紀の会」を結成した。
1951年『近代文学』2月号において、安部の短編「壁 - S・カルマ氏の犯罪」が発表された。「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に触発されて生まれた作品であり、テーマとして満洲での原野体験や、花田清輝の鉱物主義の影響が含まれていた。「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は1951年上半期の第25回芥川賞を、石川利光の「春の草」(『文學界』)と同時受賞した。選考会の席上で、「壁」は選考委員の宇野浩二から酷評されたものの、同じく選考委員の川端康成および瀧井孝作の強い推挙が受賞の決め手となった。同年5月に、「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は、「S・カルマ氏の犯罪」と改題の上、短編「バベルの塔の狸」および短編集「赤い繭」と共に、石川淳の序文を添えて、安部の最初の短編集『壁』として出版された。
1950年代には前衛芸術の立場に関心をもち、野間宏とともに『人民文学』に参加する。その流れで、『人民文学』が『新日本文学』と合流してからは新日本文学会に所属し、日本共産党に所属していた時期もあった。しかし1961年に、日本共産党が綱領を決定した第8回党大会に批判的な立場をとり、党の規律にそむいて意見書を公表し、その過程で党を除名される。
1962年に発表した『砂の女』を皮切りに、以後は創作活動の比重を書き下ろし長編に移し、都市に住む人々の孤独を主たるテーマとして、次々と実験精神あふれる意欲作を発表した。1964年の『他人の顔』では顔を事故で失った男が引き起こす騒動を、1967年の『燃えつきた地図』では失踪者を追う興信所員を主人公に失踪者と追跡者が転倒する顛末を描写。1972年の『箱男』では段ボール箱を被ったまま生活する奇妙な男の日常を描き、1977年の『密会』では病院を舞台に奇妙な病気にかかった病人とその治療に当たる奇妙な医者たちを描いた。
特に昆虫採集に来て迷い込んだ村で閉じ込められた教師を主人公に、脱出を図ろうとする主人公とそれを阻止しようとする村人の関係を描いた『砂の女』は、世界30カ国語に翻訳され、安部の名声を国際的なものとした。安部の評価は特に共産主義圏の東欧で高く、西欧を中心に高評価を得ていた三島由紀夫と対照的とされた。その三島もまた安部を高く評価し、1967年の谷崎潤一郎賞の選考においては安部の「友達」を強力に推し、長編小説を授賞対象としていた同賞では、異例の戯曲の受賞を実現させている。またアメリカでの評価も高く、『燃えつきた地図』はニューヨーク・タイムスの外国文学ベスト5にも選ばれている。
1973年には自身が主宰する演劇集団「安部公房スタジオ」を発足させ、本格的に演劇活動をはじめる。発足時のメンバーは、新克利、井川比佐志、伊東辰夫、伊藤裕平、大西加代子、粂文子、佐藤正文、田中邦衛、仲代達矢、丸山善司、宮沢譲治、山口果林の十二名。安部公房スタジオは堤清二のバックアップにより日本では主に渋谷西武劇場で、海外公演もそれぞれ積極的に行ない、1979年のアメリカ公演での上演作品「仔象は死んだ」はその斬新な演劇手法が反響を呼び、以後各国の演劇界に影響を与えたが、日本では思うような評価が得られず、1980年代に活動を休止してしまう。
創作面でも、1977年の『密会』から1984年の『方舟さくら丸』へと7年ものブランクが開き(次の『カンガルー・ノート』とも7年のブランクがあいている)、内容も以後は、内向的な主人公がすえられ、閉鎖的な空間を舞台としたものへと変質している。それと同時に私生活の面でも文壇づきあいをほとんどしなくなり、孤独なものへと変質していった。
晩年はクレオールに強い関心を持ち、それをテーマとした長編『飛ぶ男』の執筆に取り組んでいたが、1992年12月25日深夜執筆中に脳内出血で倒れ、退院後も自宅療養を続けるが、1993年1月20日から症状が悪化し、1月22日早朝に急性心不全により68歳で死去した。死後、未完に終わった『飛ぶ男』などの遺作が、ワープロのフロッピーディスクから発見されるという、当時としては珍しい遺作の発見のされ方が話題となった。
安部はドイツの思想家エリアス・カネッティを、彼がノーベル文学賞を受けた1981年前後から注目していたが、同じ頃に親友であるドナルド・キーンの薦めでコロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスを読み(「あなたのために書かれたようなものだ」とキーンに言われた)、その作品に衝撃を受ける。以後、安部は自著やテレビなどで盛んにカネッティやマルケスを紹介し、かれらの作品を一般の読者に広める功績を残した。
大江健三郎は、安部公房をカフカやフォークナーと並ぶ世界最大の作家と位置づけている。自身がノーベル文学賞を受賞したおりには、大岡昇平、井伏鱒二の名前と共に安部公房の名前をあげ、もっと長生きしていれば、自分ではなくて彼らがノーベル文学賞を受賞したであろうと言う事を述べている。  単に幻想文学にとどまらず、スリップストリームやメタフィクションといったポストモダン文学に顕著な技法を実践し、推し進めた前衛文学者として、世界中で評価が高い。
夫人の真知も、安部の後を追うように1993年9月28日に死去した。一人娘の安部ねりは医者で子供が3人いる。全集編集に尽力した。2009年に30巻目が刊行、12年かけて完結。

日本人で初めてワープロで小説を執筆した作家である(1984年から使用)。使っていたワープロはNECの『NWP-10N』と『文豪』であった。
またロック・バンドピンク・フロイドの大ファンであり、まだ普及する以前にシンセサイザーを購入して使用していたなど意外な一面を持っていた(その当時シンセサイザーを所有していたのは冨田勲、NHK(電子音楽スタジオ)、そして安部の3人のみだったが、職業的な面以外で使用していたのは安部のみである)。また、安部が武満徹に自身の前衛的な曲を聞かせたとき、武満の顔が真っ青になったという逸話もある。NHKで放送されたインタビュー番組では、所有機で自身の演劇作品のためにみずから製作した効果音等を公開している。クラシックの作曲家ではバルトークを好んでいた。喫煙家。
1980年代以降は、文壇付き合いを殆どしなくなり、辻井喬によれば、作家として認めていたのは大江健三郎と安岡章太郎ぐらいであったという(ただし、大江とは、1968年頃に大学紛争を巡り意見が対立したため、長らく絶交状態になった。しかし、辻井との計らいによって1984年より読売文学賞の選考委員で一緒になったりするなど、2人の関係が徐々に修復していた)。自身と同時期にノーベル賞候補と噂された井上靖を「物語作家」、井伏鱒二を「随筆作家」などとこきおろしている。ただ、辻井喬は挙げていないが、晩年は、司馬遼太郎と大変親しく、司馬は安部が選考委員をつとめる文学賞を数多く受賞している。特に司馬の著作である『南蛮のみち』(日本文学大賞学芸部門受賞)に関して、国を持たないバスクに魅力を感じていたという。
趣味の領域を越えた写真マニアとしても知られ、彼ならではのインテリジェンスに満ちた作品を多く残している。現在、それらの一部は現行版の安部公房全集(新潮社)の箱裏と見返しに見ることができる。愛機はコンタックスで、安部が好きな写真のモチーフはごみ捨て場など。
1986年に、ジャッキを使わずに巻ける簡易着脱型タイヤ・チェーン「チェニジー」を発明。第10回国際発明家エキスポ86で銅賞を受賞した。
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2009年09月16日

『壁』(☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『壁』(かべ)は、安部公房の最初の短編集。石川淳の序文を添えて、1951年5月に月曜書房から刊行された。第25回芥川賞受賞作。「S・カルマ氏の犯罪」「バベルの塔の狸」「赤い繭」の三部からなる。このうち第一部「S・カルマ氏の犯罪」(初出時の題名は「壁―S・カルマ氏の犯罪」)は第25回芥川賞を、第三部「赤い繭」は第2回戦後文学賞をそれぞれ受賞した。

<あらすじ>
[第一部 S・カルマ氏の犯罪]
ある日、目を覚ますと自分の名前を失ってしまったことに気づいた男。事務所の名札には、「S・カルマ」と書かれているが、しっくりとこない。しかも、男の席に、「S・カルマ」と書かれている名刺がすでに座っていた。名刺は男の元から逃げ出し、空虚感を覚えた男は病院へ向かう。だが、院内の雑誌の口絵を胸の中に吸い取ってしまったことがわかり、帰されてしまう。男は動物園に向かったが、ラクダを吸い取りかけたところを、窃盗の罪で裁判にかけられることになった。
[第二部 バベルの塔の狸]
公園で空想にふけっていた貧しい詩人は、奇妙な獣を見つける。その獣は突如、詩人の影をくわえ逃げ去り、影を失った詩人は透明人間になってしまう。その夜、獣は霊柩車に乗ってやってきて、自分は「とらぬ狸」であると言い、詩人をバベルの塔へ連れて行く。
[第三部 赤い繭]
「赤い繭」「洪水」「魔法のチョーク」「事業」の四作品からなる。

<感想>
「地球」とか「宇宙」という名前があり、全部ひっくるめて「世界」という名前がありますが、その内側にはこれまたあらゆる名前のついたものが存在し、その実体、または概念が存在しているということは、誰でもおおよそ認識できると思います。ですが宇宙の境界(壁)の外側、向こう側には、どんな「世界」があるのでしょうか。これまで人間が認識したことのない世界、いわばまだ「名前の無い世界」。ちゃんとした名前がまだ「無い」ということは、かつて誰も経験したことの「無い」世界、もっと大袈裟に言うと、まったく概念に「無い」世界で、すなわち誰一人知ることができない世界です。人間は名前(固有名詞)の「無い」世界で生きたためしがないのであって、「無い」とは喪失した、喪失している、ということ、つまりこの小説の主人公も、ある朝、名前が突然無くなって、自己喪失というか、そんな目に会うわけです。自分に名前が無くなったおかげで、砂漠になってしまった主人公の胸について、哲学者やら法学者やら数学者が出てきて破天荒な裁判(議論)が繰り広げられます。まさに人類の教師達の退屈しのぎが始まるのです。いくらみんなが思考を重ねても、人間の認識には限界があって、主人公も犯罪者のように扱われて戸惑うばかりです。「自己喪失」=「自己認識でき無い」=「無い」=「無」につながるのであれば、我こそ認識できる範囲の行き止まり(限界)であって、世界の内側の境界、または世界の(壁)そのものという存在と化し「世界の果てとは、私(人間)自身じゃないのか」と、意外な結論に導かれていくのでした。おもしろかったです。

〜『壁』、安部公房〜
posted by 推理小説家 at 10:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 安部公房 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月12日

『砂の女』(☆☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『砂の女』(すなのおんな)は、砂丘の穴の底にある一軒屋に閉じ込められた男と、その一軒屋に住む女とを描いた安部公房の長編小説。1962年6月に新潮社から上梓され、英語・チェコ語・フィンランド語・デンマーク語・ロシア語等の二十数ヶ国語で翻訳された。1963年、第14回読売文学賞を受賞。1968年、フランスで最優秀外国文学賞を受賞。

<あらすじ>
主人公は砂漠に新種のハンミョウを採集しに向かうが、砂漠の中の村で寡婦が住む家に滞在するように勧められる。村の家は一軒一軒砂丘に掘られた蟻地獄の巣にも似た穴の底にあり、はしごでのみ地上と出入りできる。一夜明けるとはしごが村人によって取り外され、主人公は女とともに穴の下に閉じ込められ、同居を始める。
村の家々は常に砂を穴の外に運び出さない限り、砂に埋もれてしまうため人手を欲していた。村の内部では、村長が支配する社会主義に似た制度が採られている。主人公は砂を掻きだす作業をしながら、さまざまな方法で抵抗を試みるのだが。

<感想>
圧倒的な迫力、緻密な知識、構成が絶妙なバランスをもって重畳的に織り込まれている作品。サスペンスとしても楽しめるし、現代社会に対してありもしない希望と自由の幻想の上で成り立っているものと批判する寓意的小説として読んでも優れていると思います。砂に囲まれた家での思い通りにならない生活と望めば何でも手に入るように見える現代社会、優劣はどちらだと。砂が絡み付いてくるようで、読んでる途中に何度もシャワーを浴びたくなる描写にも嫌悪感を感じながらも引き込まれていきます。読んで損は全くないです。

〜『砂の女』、安部公房〜
posted by 推理小説家 at 09:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 安部公房 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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