2010年01月16日

菊池寛

菊池寛

菊池寛(きくちかん、1888年(明治21年)12月26日 - 1948年(昭和23年)3月6日)は、小説家、劇作家、ジャーナリスト。文藝春秋社を創設した実業家でもある。本名は同一表記で「―ひろし」。

菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄だったという。高松中学校を首席で卒業した後、家庭の経済的事情により、学費免除の東京高等師範学校に進んだものの、授業をサボタージュしていたのが原因で除籍処分を受けた。
しかし地元の素封家から頭脳を見込まれて経済支援を受け、明治大学法学部に入学。法律を学んで一時は法律家を目指したこともあったが、一高入学を志して中退。徴兵逃れを目的として早稲田大学政治経済学部に籍のみ置き、受験勉強の傍ら、大学図書館で井原西鶴を耽読した。
1910年、早稲田大学を中退して第一高等学校第一部乙類入学、しかし卒業直前に友人佐野文夫(後年の日本共産党幹部)の窃盗の罪を着て退学。その後、友人成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされた(後に本科への転学に成功する)。
京大卒業後、時事新報社会部記者を経て、小説家となる。私費で雑誌『文藝春秋』を創刊したところ大成功を収め、富豪となった。日本文藝家協会を設立。芥川賞、直木賞の設立者でもある。
大映初代社長を務める。これらの成功で得た資産などで、川端康成、横光利一、小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。テレビドラマ『真珠夫人』は、彼の作品が原作であり、長らく絶版となっていたが、2002年のテレビドラマ化に伴い復刊された。 1925年文化学院文学部長就任。 1927年、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。
麻雀や競馬に熱中していたことでも知られ、日本麻雀聯盟初代総裁を務めたり、馬主として競走馬を所有したりしていた。
また将棋にも関心があり、「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」というフレーズを作ったといわれる。競馬では『日本競馬読本』は競馬入門本として現在でも評価が高い。また、戦前は多くの有力馬を所有しており、能力検定競走として軍人や関係者約200名のみが観戦した1944年の東京優駿も、所有馬トキノチカヒを出走させていた事から観戦している。
太平洋戦争中、文芸銃後運動を発案し、翼賛運動の一翼を担ったために、戦後は公職追放の憂き目にあい失意のうちに没した。
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2009年09月20日

『真珠夫人』(☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『真珠夫人』(しんじゅふじん)は、菊池寛の小説。1920年(大正9年)の6月9日から12月22日まで大阪毎日新聞、東京日々新聞に連載された。

<あらすじ>
大正時代。男爵令嬢、唐澤瑠璃子は敵の罠にはめられた父を救う為、泣く泣く卑しい高利貸しの荘田勝平の妻となるが、同じ貴族で恋人の直也の為に処女を貫きながら生きていく女の愛憎劇。

<感想>
男性がすれば許されるのに女性がしたら許されないことに敢然と挑戦する主人公・瑠璃子。強い意思を持ち、知性と美貌を武器(しかし、肉体は決して許さない)に立ち向かっていく姿には、気品と潔ささえ漂い、物語の中で彼女を非難する人達の方が何となく下品に思えてくるほどでした。そして、あの時代に男性でありながら、女性の立場から冒頭のような矛盾を小説のテーマとしようとした菊池寛の発想の自由さと大胆さにとても驚かされました。あと、男性の立場ならではというか、瑠璃子に恋していく男性達の描写が素晴らしかったです(特に勝平)。

〜『真珠夫人』、菊池寛〜
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2009年09月15日

『恩讐の彼方に』(☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『恩讐の彼方に』(おんしゅうの かなたに)は、大正8年(1919年)1月に発表された菊池寛の短編小説。本作を三幕の戯曲に書き直したのが『敵討以上』(かたきうち いじょう)である。江戸時代後期に、豊前国(大分県)の山国川沿いの耶馬溪にあった交通の難所に、青の洞門を開削した実在の僧・禅海の史実に取材した作品である。しかし禅海は、小説の主人公である市九郎(了海)のようにこれを独力で掘り続けたわけではなく、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇って掘った。また敵討ちの話も菊池による創作である。

<あらすじ>
越後国柏崎生まれの主人公、市九郎は、主人である浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛の愛妾であるお弓と密通し、それが三郎兵衛の知るところとなり、手討ちされそうになる。とっさに反撃に出た市九郎は、逆に三郎兵衛を斬ってしまう。市九郎は、茶屋の女中上がりのお弓にそそのかされて出奔、中川家は家事不取締に付き、お家断絶と沙汰される。 
東山道の鳥居峠で茶屋を開いた市九郎とお弓は、表の顔は茶屋の夫婦であるが、その裏で人斬り強盗を生業として暮らしていた。
江戸出奔から3年目の春、自らの罪業に恐れをなした市九郎は、お弓の許を離れ、美濃国大垣在の真言宗美濃僧録の寺である浄願寺で、明遍大徳の慈悲によって出家を果たし、法名を了海と名乗り、滅罪のために全国行脚の旅に出た。
享保9年(1724年)秋8月、赤間ヶ関、小倉を経て、豊前国に入った市九郎は、宇佐八幡宮に参拝し、山国川沿いにある耆闍崛山羅漢寺を目指した。樋田郷に入った市九郎は、難所である鎖渡しで事故によって亡くなった馬子に遭遇した。そこで、その難所の岩場を掘削して、事故で命を落とす者を救おうという誓願を立てる。
近在の人々は、そんな市九郎を狂癡の僧として扱い、見向きもしなかった。しかし、それが多年に渡ると、何度か石工を雇って力を合わせようとするが、難工事のゆえに、長続きすることはなく、また、市九郎一人に戻る始末であった。
月日が経って、18年目の終りになり、中津藩の郡奉行に計らいにより、ようやく石工を雇って、掘削作業を進めることができるようになった。
三郎兵衛の子、中川実之助は、父の死んだ時は3歳であった。親類の許で養育され、13歳で父の非業の死の顛末を知る。実之助は、柳生道場に入門し、19歳で免許皆伝、仇討ちのため、27歳まで諸国を遍歴し、九州に入って福岡城下から中津城下へ来た。そこで、市九郎と素性が一致する了海という僧が、山国川の難所で艱難辛苦の最中であることを知り、現場に急行する。 
市九郎は、親の仇を名乗る実之助の前で、素直に斬られることを望むが、石工たちが必死に止めに入ったため、石工の統領の計らいで、洞門の開通まで仇討ちは日延べすることとなる。
市九郎が掘り始めてから21年目、実之助が来て1年6ヵ月、延享3年(1746年)9月10日の夜九つ近く、ようやく洞門は開通する。

<感想>
古典といっても過言ではない作品ですが、同時代の他の作家と比べると読みやすい文体だと感じました。「恩讐の彼方」は、耶馬渓の羅漢寺界隈に仕事で行った際にその舞台である旨を聞きましたが、本作品を読むには至らなかったです。今回読んでみて、短いですが起伏に富んだ表情豊かな話で、非常に引き込まれました。

〜『恩讐の彼方に』、菊池寛〜
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2009年09月13日

『父帰る』(☆☆☆☆:小説おすすめ度)

『父帰る』(ちち かえる)は、大正6年(1917年)に発表された菊池寛の戯曲。

<あらすじ>
明治40年頃のことである。家族を顧みず、家出した父が、20年ぶりに落ちぶれ果てた姿で家に戻って来た。
母と次男と娘は温かく迎えたが、貧困と闘いつつ一家を支え、弟妹を中学まで出した長男・賢一郎は父を許さなかった。父は家を去る。しかし、哀願する母の叫びに、賢一郎は弟を連れて、狂気のように父を追う。

<感想>
とても短い作品(戯曲用のシナリオ)だったのですが、3人の子と妻を残して去っていった父が戻って来た時の長男の気持ちにぐっとお腹の底のあたりが苦しくなりました。こんなにこれまで辛い思いをして暮らしてきたのは父親がいなかったからだ。これまで何の便りもなく自由に生きてきて、体が自由が利かなくなってきたからとなぜ帰ってこれるのか。去る父を止めない長男に必死で説得しようとするほかの3人。そして、長男も最後には折れる。しかし、表には父の姿はもうなかった。
リアルでシーンが思い浮かびます。

〜『父帰る』、菊池寛〜
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